かけ出し日本語教師 in 中国

28歳独女、中国で奮闘中です

学生の権利、教師の義務

なんでだろう

いや、なんでだろうじゃないですね。

続かないのは私の記憶から完全にこのブログの存在が消えている期間が長いからです笑 

 

今学期(後期)の授業も半分以上が終わり、残すところ1か月半くらいになりました。

前回の更新が前期の授業が始まってすぐのところだったので、

相当長い間ストップしていたことになりますね笑

 

中国での外国人生活にもだいぶ慣れました。

相変わらず、私の中国語レベルはまだまだですが;

 

冬休みは一度、日本へ帰国しました。

そして、あと2か月くらいでまた一時帰国します笑

ということは、あともう少しでこの大学に赴任して1年になるということです。

わーお、早い。

 

この1年いろいろなことがありました。

特筆すべきは何でしょうねえ…

 

同僚の日本人教師がすごい人(抽象的)だとわかったことですかね!

すみません、これはネガティブな意味で、です。

 

もっとほかにも取り立てて書くべきことはあると思うのですが、

これは、間違いなく、ここに来ていちばん衝撃が大きいのです。はい。

 

混乱、怒り、悲しみなど、気持ちのはけ口がないので、

なるべく中立に(を装いながら)その日本人教師の批判をさせてもらいつつ、

大げさですが自分の教育観の一部を書いていきたいと思います。

 

おかげで最終的には、

学生の権利とは、教師の義務とはどんなものか、真剣に考える機会になりました。

 

私はその先生からは何だか煙たがられているようなので、

なるべく、会ってお話しすることは避けていますし、

仮に食事会などで長時間お会いしたとしてもこんなことはお話しできないので、

勇気のない私は、きわめて姑息な手段に出ているんですけど;

 

「国語教師」と「日本語教師

この職場には、私の他に、もう一人の日本人教師がいます。

長い間、日本の高校で国語を教えていらっしゃった50代の男性です。

この大学と、日本のK県の教育委員会の提携関係により、派遣されて来ています。

私の1年前にここに赴任され、もともとは1年間の契約だったのが、

この先生の強いご希望で、あと2年間延長することになったと聞いています。

 

ここで少し、語句の確認をしたいのですが、

「国語教育」…学校教育(小、中、高)において、日本人(日本語母語話者)に対して行う。母語としての「日本語」を学ぶだけでなく、日本人としての価値観を形成するのに大きな役割を果たし、日本人を日本人たらしめる場となる。

日本語教育」…日本語を母語としない人(非日本語母語話者) に対して行う。非日本語母語話者が、外国語としての「日本語」を学ぶ場となる。

 …といったことを、私は大学1年生のときに授業で勉強しました。

 

それから、

前者は学校教育の中で行われるので全人教育(人間性重視)がなされるのに対し、

後者はそういったことは必ずしも問われない、という違いもあると思います。

 

まあ、細かいことはさておき、

両者は名前こそにていますが、その内容はまったく別物だということです。

 

ということで、同僚の日本人教師は「国語教師」歴の長い「日本語教師」です。

かたや、私は大学・大学院で「日本語教育」を専攻した、新米の「日本語教師」です。

 

私は決して、

「ここは日本ではないし、学生たちが勉強しているのは国語ではないのだから、

この大学で教えるのは、日本語教育を専門的に学んだ日本語教師であるべきだ!」

などと言いたいのではありません。

 

内容的にどちらにも共通していることは多くありますし、

日本語教育が国語教育から学ぶべき点はたくさんあります。

 

それに、その先生には教師としての長年のキャリアがおありなので、

授業をすることに関しては大ベテランでいらっしゃるわけなのです。

年齢的に人生経験も豊富なので、私には話せない人生訓もたくさんお持ちです。

 

それと比較して私が自分のことを過剰に悲観する必要はないかと思いますが、

私には成し得ない授業、教育をなさる先生です。

私と彼は別の人間なので、当然といえば当然ですが笑

 

解せないことがある

ですが、私は彼の授業方法について、どうしても賛成できないことがあります。

私は、「会話」の授業では、学生たちに会話をさせることが第一義だと思っています。

難しいことは言わなくてもいいから、とにかく話してもらいたい。

 

(ここからは私が聞いた情報をもとに書いていきます。)

 

その先生の会話授業は、ひたすら日本語で文法説明、教科書の文言の説明に終始する、

「精読(文法)」+「聴解」のような授業だと、多くの学生から聞いています。

具体的には、会話用につくられた日本語の教科書のことばを一字一句拾い、

先生が、とーーーっても詳しく内容説明をするので、授業進度はかなり遅め。

その授業で学生たちが口を動かすことはめったにないそうです。

 

また、先生の説明はとてもわかりやすいけれど、

その内容はかなり前に中国人の先生が精読の授業で教えてくれたものなので、

簡単すぎるとも言っていました。

 

授業評価のために、学科主任もこの先生の授業を見学ましたが、

やはり、学生から聞いていた通りの授業だったそうです。

 

彼は、日本で国語教師として教壇に立たれていた期間も長いので、

どうしても、簡単に授業方法を変えることができないのではないか、

雰囲気が高校の国語の授業のようになってしまうのではないか、

と、私は勝手に想像しています。

 

つい1か月ほど前のことですが、

その先生が会話を担当するクラスの学習リーダーの学生(女子)が、

クラスの意見を代表して先生の自宅へ直訴しに行きました。

「先生の会話授業の方法を変えていただけませんか」、

「これでは会話の能力を伸ばすことができないと思います」と。

 

私はそれを聞いて、なんて勇気ある行動なのだろうと思いました。

それに、授業改善のために学生から生の声をもらえるのはとても貴重だし、

多少耳が痛い話でも、意見がもらえるのはありがたいことだとも思います。

 

しかし、本当に解せないのはここからです。

 

直訴の日、先生がどんな反応をし、どうやって学生を帰したのかはわかりませんが、

翌週のそのクラスの授業のとき、教室に入るやいなや教科書で教卓をバーーンと叩き、

大きな文字で黒板に「言葉の力」と書いて、黒板をガンガン叩きながら、

「言葉は人を喜ばせることもできるけれど、簡単に人を傷つけることもできる」

といった内容のことを、声高に、早口で口走ったあと、

勢いよくドアを開け、授業もせずに帰ってしまったそうです。

 

その後、学生たち(約30名)は一人ずつ謝罪の手紙を書き、

班長(クラスのリーダー)を含む6名で先生の家へ行って、

手紙と先生の好きな銘柄のビール(瓶6本)を謝罪の品として渡したんだとか。

 

その甲斐あってかひとまずその件は収束し、

また授業を再開してもらえるようにはなったようですが、

授業方法は以前とまったく同じだそうです。学習リーダーの勇気の甲斐むなしく…。

 

これは、国語教育と日本語教育の違い云々という話ではなく、

完全に彼の人格の問題なんですけどね;

 

昔ながらの、日本の学校教育観…?

いちばん疑問なのは、

どうして学生が謝り、先生が謝罪を受ける側なのか、ということです。

お詫びの品まで用意して渡す必要があったんでしょうか。

「言葉の力」のくだりからすると、自分が「学生の言葉で傷つけられた被害者」に

なっているとお考えだということでしょうか。

 

私の赴任前にも、この1年間にも、何度かこういった癇癪爆発事件があり、

そのたびに学生たちがひたすら謝って事態を収めてきたようです。

学生たちから聞いた報告をすべて挙げたら、挙げきれないほどです。

 

たとえその原因となったのが、

一部、出席率が悪い学生や、授業中にケータイをチラ見した学生がいたこと、

試験中にひそひそ話した学生がいたことなど、学生に非があることだったとしても、

教室で学生たち全員に向かって怒鳴りつけた挙句、

授業をしないで帰る、試験を中断するなどということは、立派な教育事故です。

 

学生たちのみならず、学科主任(中国人教師)の必死の説得のおかげもあって、

先生をなだめ、これまでなんとか丸く(?)片付いてきたみたいですが…。

 

ここから思うのは、この先生の考える「教師」と「学生」の関係性は、

「昔ながらの」学校教育におけるそれに近いんじゃないか、ということです。

 

いい意味でもその傾向は現れていて、大人として人生で大事なことを伝えたり、

いけないこと(カンニングやサボりなど)はいけないと全力で注意したりできるのは、

まさに先生の学校教育でのご経験の賜物だと思います。

「生徒指導」に近いものがあるようにも感じます。

 

(最近ではその様子も違うようですが)少なくともこの先生が教壇に立たれたころは、

学生(生徒)にとって教師の存在、発言、行動、考え方は絶対で、

「教師 > 学生(生徒)」という力関係も、絶対的なものだったのでしょう。

 

また別の事件のときに飛び出した発言(※)を見ても、彼が、

必ず、学生と教師には上下関係が生じるものだと捉えていることがよくわかります。

(※「教師の問いかけ(注:QQというSNSにおける公開メッセージ)に反応しないとは、学生も偉くなったものだ。いい根性してる。」)

 

これは完全に私の妄想ですが、ここまで横柄な態度に出ているのは、

儒教思想が根付き、年長者、特に「先生」を敬う気持ちが強い中国人の考え方を

利用しているんじゃないかとも思えてしまいます。

 

学生たちにしてみれば、

授業料を納めたのに授業をしてもらえないのはお金が無駄になるし、

競争がかなり激しいこの国においては、授業や試験の成績はかなり重視されるので、

なんとしても授業を再開してもらおうと必死になるのは理解できますけどね;

 

K県教育委員会からの派遣後任者が簡単に見つからないことを知っていて、

あえて「こんな大学辞めてやる!」と学生たちに公開のSNSで発言したり、

学科主任に「じゃあ今すぐ解雇してくださって結構です!」と言ったりするあたり、

自分を特別扱いされ敬われるべき存在と見なし、「貴重な外国人教師」であることに

あぐらをかいているように見えて仕方がありません。

 

権利と義務

さて、冒頭でちらっと書いたことですが、

教育現場において、学生には、よりよい教育を受けるために、

教育を提供する側(大学や担当教師)に対して意見を言う権利があると思います。

一方、教師には、常に授業を改善する姿勢をもち、

よりよい教育を提供するために、学生からの意見に耳を傾ける義務があると思います。

 

過激な人権論者になりたいわけではありませんが、

件の日本人教師はその義務を放棄し、学生の権利を蔑ろにしているように感じます。

 

私は、その先生のことが羨ましいと思いました。

授業をよりよくするために、学生のほうから要望を言ってくれるなんて、

自分では気づけないことに気づかせてくれる、またとないチャンスじゃないですか。

それを退けるのは、とてももったいないことだと思うんだけどなあ。

 

これは、私が新米だから思うことなんでしょうか。

教歴30年ともなると、こうやって他人から自分の教育方法に口を出されることは、

プライドが許さないのでしょうか。

 

それとも、やはり「国語(学校)教育畑」「日本語(外国語)教育畑」という、

出身とする分野の違いから、学生からの意見への態度に違いが出るのでしょうか。

 

ご本人の性格によるものがいちばん大きい気もしますけどね。

 

 

いろいろと書いてきましたが、結局のところ何が言いたいかというと、

自分のやり方に口を出されても逆切れしたらあかんやろ!

ということです。

 

 

よーしすっきりした。

また何か思ったことがあったら書きます。不定期で笑